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1.「広間家の門」
廣間家は、先々代の時から生駒家のご典医として明治初め頃まで仕えてきました。生駒家からお呼びがかかると、早速生駒屋敷に参じ、医療にあたることになっており、普段は自営の医業を行っていたということです。
現在、廣間家にある門は、明治初年の廃藩置県の時、生駒家にあった中門をもらいうけ、移築したものです。
この中門は、欅(けやき)造りで、門の正面には海鼠(なまこ)壁(漆喰(しっくい)などの外壁に平瓦を貼り付け、その目地を漆喰でかまぼこ形に盛り上げたもの)が施されており、意匠をこらした棟瓦・鬼瓦には、往時の面影を残し実に見事なものです。一般の訪問者は外門をくぐって玄関の方へ通じたものですが、中門を通り庭石を伝ってお座敷へ通されるのは、特別な人に限られていました。また、主人が外出する時は、中門から駕籠に乗って出かけたため、門の南袖には駕籠の棒を挿した穴がついています。
近世の貴重な建造物で、個人の所有としては大変珍しく、市の文化財として指定されました。

2.田代墓地内の「経塚」と「吉乃桜」
田代町の田代墓地の一角に大きな桜の木があり、その脇に小高い盛り土があります。
その上の高さ125センチの碑に観音像が浮き彫りしてあり、小牧山に向かって建てられています。裏には「尾州丹羽郡小折村新野経塚」、その右に「久庵桂昌大禅定尼葬地也」と刻まれています。
ここが、信長の室「吉乃の方」を荼毘にふしたところです。建立されたのは定かでありませんが永禄9年(1566)5月13日、29歳の若さで帰らぬ人となった吉乃の方を弔って、死後建てたものと思われます。じっとこの観音像を拝していると、吉乃の方の優しいほほえみが伝わってくるようです。帰らぬ人となってしまった吉乃の方を思い、信長は一晩中泣き明かし、その後も一人小牧城の望楼にたたずみ、この地に向かって涙する日が続いたといわれています。
そして、あの戦国時代に信長を中心に郷土が生んだ前野将右衛門一族、蜂須賀小六父子、豊臣秀吉、徳川家康などが命を賭けた数々の戦いが思い起されます。さらに、激しい国盗りの影で信長と吉乃の方のラブ・ストーリーが偲ばれます。


3.「久昌寺」の本堂ならびに久庵桂昌大禅定尼(織田信長夫人)の位牌
久昌寺の前身は、至徳元年(1384)この地の土豪林朝忠により禅喜寺を早創、その後、嘉慶元年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺に改めています。応仁のころ、大和から移住した生駒家初代家広が先祖の冥福を祈るため、寺を再営し菩提所としました。
生駒家四代家長の妹「お類」は織田信長の目に止まり「吉乃の方」として迎えられます。後の織田信忠、信雄、五徳を産みますが、産後の肥立ちが悪く、永禄九年(1566)5月13日、29歳の若さで新築となった小牧城でこの世を去ってしまいます。
この年「久庵桂昌大禅定尼」の法名でこの寺にまつり、寺名を尾張名所図会に「其の居地に嫩の桂二株ありて、久しく昌えしゆえ、かく法号とせしとぞ」と書かれているように嫩桂山久昌寺と改め、660石乃知行を得た信雄は寺域を整備し、菩提を弔ってきました。このころの久昌寺は般若寺をはじめ十か寺の塔頭と末寺など五か寺を加え壮大な寺域でした。
境内の西側に生駒家の墓地があり、ここに「吉乃の方」の墓碑があります。そして、この碑には「織田信長公室 生駒蔵人家宗女、当寺中興開基久庵桂昌大禅定尼 永禄九丙寅年五月十三日」裏には、「中将織田信忠卿、内大臣信雄公、徳川信康妻見星院 右三子母室也。小牧城内違居、丹羽郡小折村菩提禅刹贈葬」と刻まれています。また、この墓地はこの地方では見られない立派な墓碑が林立しています。大きな墓碑は尾張藩の重臣になってからの六代利勝以後のものが多いようです。
現在は、前庭を久昌寺公園として整備され、市内の歴史探索や憩いの場となっています。

4.「生駒屋敷跡」小折城跡
生駒屋敷は小折にあることから「小折城」とも呼ばれ、織田信雄が尾張藩主となると、今までの屋敷を外敵から守る機能を持つ城に造り替えました。それは、「張州府志」に「尾張藩主織田信雄は小折城中で生れる。今その地を西の丸という。その後、小折城を修築し、うちに楼高を立て、・・・・。その遺跡の所在これあり」といっていることによってもわかります。 天正12年(1584)小牧長久手の戦いの折、東軍の徳川家康が小折城の守りの手薄を憂いて訪れたのは有名です。
利豊以後、生駒氏は名古屋の城下に屋敷を持ったため、ここは元の宅地となり、小折城跡は別邸になって年貢の取り立てや民治の館になってしまいました。小折城を表わす資料は、江戸時代の絵図と明治初年の地籍図のみです。地籍は約5ヘクタールで南神明裏入口、東裏門口、西八龍出口、北桜門出口の四つ門があり、柳街道に沿った城下町が屋敷の東側と南側に発達していました。
明治維新のとき田畑や宅地となりましたが、現在では、塀に細長く囲まれた2ヘクタールほどの屋敷跡の一部に布袋東保育園が建てられています。

5.「常観寺のお釜地蔵」
常観寺は曹洞宗で、創立は不詳ですが、縁由によると嘉祥・仁寿(850年)のころ、参議篁が地蔵菩薩銅像を鋳造してまつり、桜雲山常観寺と名付けたのが起こりといわれています。
常観寺といえば鋳鉄地蔵菩薩立像(お釜地蔵)が有名ですが、本尊は釈迦牟尼仏、すなわち仏教の開祖、生・老・病・死の四苦を救うために修業した人「お釈迦様」をまつっています。
正親町天皇の永禄元年(1558)ころになると荒廃も甚だしく、時の住職太広養は本殿を修復したり、庫裏を造営したりして、寺の中興を図ったと伝えられています。さらに、生駒家当主五代利豊や六代利勝の援助を受けて、立派な寺廊に整えられました。
この寺は信長の室「吉乃の方」をまつる久昌寺の末寺であり、生駒氏が大きくかかわっていたことがうかがわれ、その庇護のもとに栄えてきました。なお、本尊も霊験あらたかと言われていますが、鋳鉄地蔵菩薩立像は県の文化財に昭和35年6月に指定され、尾張六地蔵の一つとして有名です。


6.「富士塚の碑」
「富士塚」は小折の南山と荒門の中間にある県道小口岩倉線の東側にあり、周囲は畑地で近くまで住宅が建っています。この塚は、富士古墳といい、5世紀末の豪族のものといわれ、曽本町の二子山古墳と同時代のものと推察されています。現在は長さ30m、高さ6.5mで、原形をとどめていません。
この地の生駒屋敷は、織田信長の二男の生れた地で、織田方の拠点でした。ここは、攻撃に備えて城郭としての機能を持つ小折城になっていました。織田信長が本能寺で自刃した2年後、天正12年(1584)小牧長久手の戦いが起こり、その時生駒四代当主家長は織田信雄の命を受けて、伊勢の長島城へ出兵し、小折城をはじめこの付近の守りを嫡子利豊に任せました。しかし、利豊は幼く庶兄生駒右近が小勢で守っていました。徳川家康はこれを心配して、織田信雄と共に生駒屋敷(小折城)を訪れ、この塚に登って犬山方面の敵陣(秀吉)を視察した場所です。ここからは四方が展望でき、この合戦の戦略を立てたと伝えられています。
後になって、このゆかりの地に生駒六代当主の利勝は、初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、六角の石碑に碑文を刻み、亀型の台石上に建てました。それ以後「富士塚の碑」といって有名になり、昭和50年3月に江南市の文化財に指定されました。